中国の展示会を手掛けてからもう30年近く経ちました。最初は北京の工作機械の見本市で施工費は日本の施工費の1/3位でした。会場で売っていた弁当は70円位。それが今日では日本とさほど変わらぬ施工費に。
中国は日本と違い壁面は経師貼りではなく塗装か、メラミン仕様(経師貼りが一般的なのは日本と韓国のみ)。仕事ぶりはインドと違い烏合の衆ではありませんが施工会社のばらつきはかなりあります。仕事に対する姿勢で問題が発生することも考えられます。ですから施工会社の選択も慎重にせねばなりません。現場での人命軽視はもう信じ難いレベルです。他の国では経験したことのないエピソードをいくつかご紹介したいと思います。
あれは1990年代中頃の出来事。上海の工具の見本市でした。オープン2日前、担当だった女性は、「明日は日曜日なのでお休みします。日曜日は教会に行きますので」。もう開いた口が塞がりませんでした。中国ではキリスト教信者がかなり多く、習近平が政権を握ってから締め付けはさらに厳しくなっていますがそれでも5%くらいはキリスト教信者です。
同じ展示会での出来事。得意は屋外に出展スペースを確保していましたが、ある日生憎強風で作業は難航。されど何とか順調に進んでいました。そうしたら近くで大きな音が。行ってみると6M位の脚立が強風で煽られ倒れ、脚立の上で作業していた2人が頭を強打。誰かが救急車を呼びましたが来たのはなんと小一時間立った後。時すでに遅し。二人は頭から血を出し、絶命。
その事故自体ショックな出来事でしたが、それ以上にショックだったのは翌日。血糊がついていたところは掃除されておらず、人々は何事もなかったように血糊の上を平気で歩き昼食時は他に場所もあるのにわざわざ血糊のついたところで平気で弁当を広げる人たち。絶句しました。
2002年に広州で発生し、2003年中国、香港で流行したSARS。当時展示会業界もSARSでパニックに陥り、オスロの造船の展示会では中国人の入国禁止で中国ブースはブースだけが建っていてアテンドがいないという光景がみられました。私はSARS真っただ中の4月の北京での工作機械の展示会の現場監理で北京に滞在しました。工作機械見本市は確か会期が一週間くらいだったかと思いますが、3日目位で来場者が殆どいないので中止となりました。
これから展示会どうなるのか、本当に不安になりましたが夏には収まり平時となりました。その展示会から帰国後2週間の出社禁止令が出てゆっくりと休養することができました。今となっては懐かしい思い出です。
2005年には反日運動が盛り上がりを見せた年。施工会社は日本のご出展者がメインなので気まずそうにしていました。田中元首相が訪中したことをきっかけに、1979年から30年以上に渡り約3兆円がつぎ込まれましたが、そのことは人民には知らされず中国は大いに発展しました。
北京の地下鉄も然り、日本の無償援助でした。逆の立場だったら日本は地下鉄のどこかに碑を建立し感謝の念を記したでしょうに。お上は極力それを隠そうとしてきました。そして反日運動。
中国はアヘン戦争で英国に敗れ南京条約が結ばれましたが、それ迄は世界に冠たる大国で全盛期のスペイン、ポルトガルですら中国に攻め入ることはできませんでした。習近平もそれが忘れられず、無茶苦茶な論理で世界征服を企んでいますが、中国の歴史をみると殆ど全ての体制は農民一揆で倒れたことを忘れてはなりません。9割の極貧の民はみています。
ヨコミチヘソレマシタ。閑話休題。
25年位前一緒に仕事を始めたA。彼はシンガポール人でシンガポールの施工会社に勤務していて当時30代。優秀な営業マンでした。その会社はアジア、中東にネットワークを持ち、当時、私の前の勤務先はドイツが売り上げの大半を占めていましたが、アジア展示会施工のお問い合わせも頂くようになり、シンガポール以外にもドバイ、インド、中国等の施工は彼に任せれば全てうまくいき、貴重な存在でした。
そんな彼が“これからは中国だ 独立して中国で一旗揚げる”といって施工会社を北京で始めました。当時私の前の勤務先も中国の展示会が増え始め、中国は彼に一任。彼の仕事も順調で上海モーターショーではフェラーリのブース施工も任されるに至りました。
私が現場に行くと酒飲み同士で深夜まで飲み、語らい合い楽しい時を過ごしました。SARSの時はオキシフルの臭いの漂う日本食レストラン(当時はどこのレストランもオキシフルの臭いが充満していました)でA、職人ひとり、得意ひとり計4人で朝香という銘柄の一升瓶5本空けたのも楽しい思い出でした。当時日本食レストランは日本円で1500円位で飲み放題、食べ放題でした(レストランの従業員は当時月給日本円で7500円位)。
その後2、3年は蜜月が続いていましたが次第に“いいのもをつくる”より“利益至上主義”に陥り、クオリティの低下を感じるようになったので、香港化粧品の見本市では久しぶりに別の施工会社に発注。その施工が始まって2日目、Aが現場にやってきて「発注した施工会社とは話がついたから、これからは俺のチームが施工することになった」とのこと。本当に絶句しました。
しっかりと仕事をし無事オープンしましたが、あの経験は今でも忘れられません。展示施工業界の顔になっていたのでそのようなことが出来たのでしょう。
しかしその後も“利益至上主義”は変わらず長年培った信頼関係は完全に崩れ去りました。あれから20年近く経った昨年、Aの同僚だったシンガポールの施工会社の人間とシンガポールで会い、旧交を温めました。その時Aの話がでましたが、なんと彼はクリスチャンになって信者に説教する立場になり、お酒も断ったそうです。本当に人間は変われるのだなあ、私も成長せねば、と心に誓った次第です。